Wednesday, January 10, 2018

映劇 映画日記 その4 ミトワさんと津端さん


『人生フルーツ』と『禅と骨』、二本のドキュメンタリーを映劇で観た。



前者は東海テレビが制作したTV番組兼劇場公開作品、後者は『ヨコハマメリー』の中村高寛と『夢みるように眠りたい』の林海象がタッグを組んだ注目作。対極にあるとも言える2本のドキュメンタリーを同時に観られる貴重な機会。

『人生フルーツ』に描かれる老夫婦像は、おそらく誰もが憧れるような理想的な老後の姿だろう。津端修一と英子、都市計画家とその妻。90歳と87歳……ふたりは秀一が手がけた巨大な住宅団地の傍で、300坪の土地に自宅を構え、雑木林と畑を維持して、自給自足的生活を送っている。妻を「僕の最高のガールフレンド」と語る夫と夫を「いろいろしてあげたいし、してあげたことは私に返ってくるの」と話す妻。「ゆっくりコツコツ」ができるだけの余裕……そして知性(ふたりは90度の角度に座って、同じ方向を見る)。優しく緩やかに流れる時間のなか、周囲の人たちや未来の人たち(孫の「はなちゃん」)への思いやりを語り、実践する老夫婦のドキュメンタリーは、実際にあった暮らしを記録してはいるけれど、ある意味、制作者たちの意図りのファンタジー(あるいは寓話)に仕上がっている。

 『禅と骨』は日系の禅僧ヘンリ・ミトワの波乱万丈の人生を、インタヴュー、記録された映像(ドキュメント)、再現ドラマ、アニメーションなどの手法を駆使して描き出す。さまざまな手法を用いてはいるが、映画は破天荒な主人公ミトワとストレートに向き合っている。映画のアンバランス、デコボコは主人公の存在そのものによって生まれているのだろう。監督は『ヨコハマメリー』でも「奪い取られた」ホームレスの老娼婦に焦点を当てたが、この映画でも、ミトワという強烈な個性と戦いながら、彼の「奪い取られた」部分、あるいは欠如(横浜時代の「父」、アメリカ時代の「母」、そして「日本」などなど)を描いているように思う。「粋人」にして「変人」のヘンリは彼にさまざまな欠如を強いた「戦争」なくしてはできあがらなかった。いろんなものに飢えていたヘンリはきっとエンディングロールに流れる横山剣の歌のように『骨まで愛して』欲しかったのだ。再現ドラマのウェンツ瑛士がとてもよく、彼の朗読するヘンリの『祖国と母国のはざまで』は美しい。この本、読みたくなった。

カウリスマキの傑作『希望のかなた』のあとには『被ばく牛と生きる』『三里塚のイカロス』と必見のドキュメンタリーが続く。アン・ハサウェイのあの映画も小屋にかかる。映劇、楽しみだなぁ。

Monday, January 01, 2018

そのうち映劇 映画日記 その3 希望のかなた


ユーロスペースでカウリスマキの『希望のかなた』を観てきた。

難民3部作の第2作。舞台はヘルシンキ。映画は、カリードとヴィクストルム、ふたりの男のそれぞれの物語から始まり、ふたつの物語はやがてひとつになってゆく。カリードはシリアからの難民で、偶然、ヘルシンキにたどり着いた。ヴィクストルムはアル中の妻と別れ、ひとりになったばかり……。

船荷の石炭殻から真っ黒な顔をしたカリードが出てくるシーンから「あの」結末まで。印象的なシークエンスの連続で、映画は観客を鷲掴みにして離さない。余計な台詞や余計なアクションを一切排して、それでもふたりを取り巻く「今」を見事に物語る。カウリスマキのショットやカットは素晴らしく饒舌だ。

ヨーロッパの「難民問題」というこれ以上ないシリアスな問題を真正面から扱いながら、辛気臭くなったり、お説教くさくなったりせずに、映画はいかにもカウリスマキらしい「世界」を描き出してゆく。ユーモアと音楽をたっぷり目に使いながら、ともすれば忘れ去られそうな、世界の片隅をしっかりと照らし出す。苦境に直面しても、恨み言ひとつ言わず、寡黙に日々を送る無名の人びとがそこにはいる。よく「ミニマリスト」と言われるカウリスマキだが、結果として映画はマキシマムに「今」を描き出している。

これはやはり、どうしても観るべき映画。過酷な現実と小さな善意の物語。カウリスマキらしく、愛らしいわんこも、「やられた!」な「日本」もしっかり登場するが、上田映劇で観たらきっと一層感慨深いカットもあるので、せっかくだから是非是非、映劇で(と勝手に応援)。



公式ウェブはこちら

Wednesday, December 13, 2017

映劇 映画日記 その2 サーミの血



 言われなき差別は今でも存在する。かつてはこれに「科学的説明」「生物学的証拠」という厄介な言説が絡みついていた。ダーウィンの「進化論」浸透以来、人相学や骨相学などさまざまな「言説」は跳梁跋扈し、ある種の人びとを蹂躙した(少なくともこれは60年代まで続いた)。ある種の人びととは大概の場合、少数派をさす。『サーミの血』はそうした時代、1930年代のスウェーデンの話である。
 ラップランドに暮らす先住民族サーミの少女、エレ・マリャ。誇り高い彼女は屈辱に耐え、差別に抗う。マジョリティ(スウェーデン人)と対等な学び、暮らしを目指す彼女は、ルーツを捨て、強制された民族服を脱ぐ。女教師の服を身に纏った時、偶然、スウェーデン人の若者たちに声をかけられ、「クリスティーナ」と名乗る。パーティに出かけ、マジョリティの暮らしの一端を経験する。女教師に「あなたたちの脳は文明に適さない。ここにいないと滅んでしまう」と進学のための推薦書を拒否された彼女は、パーティで出会った青年ニクラスを頼りに一人都会に出てゆく……。
 映画は「額物語」になっていて、オープニングとエンディングでは「クリスティーナ」の帰郷が描かれる。家族との別離以来初めて、妹の葬儀のために故郷を訪れた彼女の傍には息子と孫娘がいる。伝統のサーミの衣装を着せられた孫娘は、何の抵抗もなくその美しさを喜び、息子はサーミ人の叔母との「最後のお別れ」をするように母を説得する。最後の最後まで「クリスティーナ」は参列を拒否する。
 メインの物語(1930年代)と冒頭、末尾のシーン(映画的「現在」)には、おそらく50年以上(もしかしたら60年近い)「空白」がある。観光客のサーミ人に対する悪口に同調して、自ら「教師をしていた」という彼女の「50年」がどのようなものであったのか。「空白」は観客に委ねられている。




おまけ)エレ・マリャがニクラスの誕生日に歌った「ヨイク」。悪意のない好奇心によって一層彼女が傷ついた伝統の音楽は、無邪気にも『アナと雪の女王』(2013)のオープニングに使用されている。女性の自立と解放の物語。うむ、色々考えさせられる。


『サーミの血』スウェーデン・デンマーク・ノルウェー合作
(2017、UPLINK)108分

監督:アマンダ・ケンネル 
製作:ラーシュ・G・リンドストロム
製作総指揮:ヘンリック・セイン/レーナ・ハウゴード
脚本:アマンダ・ケンネル

出演:
レーネ・セシリア・スパルロク(エレ・マリャ)
ミーア・エリカ・スパルロク(ニェンナ)
マイ=ドリス・リンピ(クリスティーナ/エレ・マリャ)
ユリウス・フレイシャンデル(ニクラス)
ハンナ・アルストロム(女教師)

映劇 映画日記 その1 ひいくんのあるく町(ネタバレあり)

           (コトバヤ、タカハシさんのスタンプ)

 ありふれた田舎町。シャッターが目立つ商店街。お祭りのときだけちょっと賑わう、そんな地域。日本全国どこにでもありそうな町、市川大門がこの映画の舞台。ひいくんは毎日そんな町を歩く。ザッザッと独特な足音を立てて。なぜか白いヘルメットを被って。ショッピングッセンターや個人商店、果ては誰かの家にまで出かけて行って、頼まれもしないのに手伝いをする。道端でタバコを吸って暇そうにしているおじさんたちと話をする。多くの人がこの町を後にしたが、ひいくんはどこにも行かない。この町にいる。
  映画はそんな町とひいくんの日常を淡々と追ってゆく。ひいくんの目線から見た町を追体験することによって、観客は「落ちぶれた」「衰退した」というありきたりの形容詞で片付けられてしまいそうな「町」を再発見してゆく。確かに高度成長期のような「繁栄」は失われたかもしれない。でも、経済的な豊かさ以外の「豊かさ」がこの小さな町には息づいている。そこには、寛容で優しい人びとが暮らし、受容的で穏やかな暮らしがある。この映画が新鮮で、静かに観客の心の中に入ってくるのは、「取り残された」町の人たちの悲しみや寂しさも共有しながら、「変なおじさん」ひいくんと一緒に、「故郷」見つめ直す監督青柳拓の視線があるからだろう。
  だからこそ、もう開くことはないと思われていた監督の叔父の店「水口商店」のシャッターが唐突に開けられて、脳梗塞で倒れた叔父さんが、鼻水を垂らしながら嬉し泣きする場面で、観客も思わずもらい泣きそうになるし、「コミュニティスペースとして再活用」という話を聞くと希望が見えた気がするのだ。
 ちょっと大げさに言えば、「市川大門」という小さな世界を通して、「日本の今」という大きな世界も見えてくる。そんなドキュメンタリー。『ひいくんのあるく町』は、今だからこそつくられ、今だからこそ見るべき映画なのだ。「半径3メートル以内に大切なものはぜんぶある」ひいくんは改めてそんなことに気がつかせてくれる。


『ひいくんのあるく町』
上映時間:47
2017年、水口屋フィルム 
(日本映画大学 卒業制作)

監督:青柳拓
プロデューサー:植田朱里
副プロデューサー:熊澤海透
撮影:山野目光政
録音:福田陽


公式ウェブサイト:http://hikun.mizukuchiya.net/